旅路での訓練
前回から、イスラエルの人々がエジプトから脱出しし、神の約束の土地へと向かって旅をするお話をしています。人々は神からマナというパンを与えられて、神に従う訓練を受けていきます。神が人々を訓練するのは、神自身のためではなく、人々が神の祝福を受けるためであり、神は人々を心から愛しているからです。


今回もこの旅路で起きる出来事を通して神の祝福を学んでいきたいと思います。
今日の私のお供は、エスプレッソクリームチーズケーキと、ラテです。本当に美味しくて、大満足です。神のために働くといつも美味しい祝福がついてきます。
神と争ってはならない
神はイスラエルの人々に「マナ」というパンを与えながら、目的地に向かって人々を導きます。人々がレフィディムという土地にたどり着くと、そこには水がありませんでした。彼らは喉が渇いて仕方なくなり、モーセに不平を漏らします。
ちなみこの目的地にたどり着くまでの旅の中で、何度か水をめぐって人々が不平を言う箇所があります。一度目は、前回触れたのですが、マラという土地にたどり着いたときに、水が苦くて飲めなかったたため、水がないと訴えた時です。モーセが神に従って水に一本の木を投げ入れると、水は甘く変わり飲み水になりました。今回の水を求める不満は、二度目の事です。この後でもまた水をめぐっての出来事があります。
彼らはすぐに極端な表現でモーセを責め立てます。私たちを、渇きで殺すためにエジプトから連れ出したのか、と訴えたようです。エジプトで奴隷であった苦しみから助け出された恵みをすっかり忘れてしまっています。モーセがこのままでは石で打ち殺されてしまうと思うほど、彼らは責め立てたようです。
追い詰められたモーセは、神に祈り助けを求めます。神はモーセに、人々の年長の指導者たちを集めて先頭に立たせて、ホレブの岩に向かうように指示します。モーセは言われた通りに人々を連れてホレブに向かいます。

神はモーセに、神自身がホレブの岩の前に立ち、神が岩から水を出すと約束してくださいます。モーセにはその岩を打つだけでいいと言われます。
モーセが神に従って岩を打つと、神の約束通り岩から水が流れ出し、人々は水を得ます。
モーセはその場を争いという意味を持つ「メリバ」と名付けます。人々がモーセに不満をぶつけることは神を信頼していない事を現し、神と争うことをになります。モーセがこの名前を付けたことで、この場所は、神と争ってはならないと常に戒めを与える場所になります。

現在の社会でも、戦争などの悲しい歴史をくりかえさないように、人々の心に教訓となる記念碑がいくつもあります。「メリバ」は人々に、不満を言って神と争うのではなく、神を信頼し祈り求めることを教えてくれます。神は人々に、目の前に起きてくる困難に翻弄されないように何度も訓練されます。
聖書に、「それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」と書かれています。
神の訓練は、どんな時も心騒がせずに神を信じて従う、そんな品性と希望を私たちに与えてくださいます。
初めての戦い
イスラエルの人々がレフィディムという土地に滞在していると、アマレクという民族が襲い掛かってきます。イスラエルの人々は長年エジプトで奴隷として過ごしてきて、民族間の戦いをしたことはありません。絶対的に不利な状況です。
モーセは、イスラエルの人々の中からヨシュアという青年を選び出し、戦いのリーダーに任命します。そして、人々を集めて戦隊をつくりアマレクとの戦いに出陣させます。戦隊が戦っている間、モーセは数々の神の奇跡を行った杖を手にし、兄アロンとフルを連れて、戦いが見渡せる丘の上に上ります。
ヨシュアがモーセが命じられたとおりにアマレクと戦っている間、モーセは丘の上からその戦いの全貌を見渡し、手を高く上げます。モーセが手を上げている間は、イスラエルが優勢になり手をおろすとアマレクが優勢になります。
モーセが疲れてくると、手が下がってきます。兄アロンとフルは石を持ってきて、その上にモーセを座らせて、それぞれモーセの両側に立って彼の手を支えます。三人は日が沈むまでしっかりと手を上げました。
ついにヨシュア率いるイスラエルの戦隊は、アマレクを打ち破り勝利を収めます。すると神はモーセに、これらの出来事を文書に書き記して記念として、ヨシュアに読み聞かせなさいと言われます。そして神は、アマレクを天の下から完全に滅ぼすと約束されます。
モーセは、手を上げてこの戦いのために神に祈り続けています。また兄アロンとフルが共に祈り支えています。ヨシュアのように最前線で戦い勝利を収めた当事者は、背後に祈りで支えてくれる人々がいること、その祈りに応えて神が勝利させてくださったと知らずに、思いあがってしまうことがあります。
神がこの出来事を記録させた聖書は、全ての勝利、成功は神の使者による祈りがあり、神の力によるものだとを教えてくれます。この後ヨシュアはリーダーとして活躍していきます。神はヨシュアが神の力を忘れないように、モーセに読み聞かせるように命じています。勝利を得たときこそ、謙遜になり、神の力に感謝し神をほめたたえる者とならなければなりません。
モーセは勝利の後、祭壇を築き神に感謝の礼拝を捧げます。そして、神が約束された通り、アマレクを完全に滅ぼすまで、神が戦ってくださることを確認します。神に捧げる感謝の礼拝は祝福の源です。是非礼拝に参加してみてください。
神の奇跡を伝える
モーセの妻チッポラの父、舅にあたるイテロは、神がモーセとイスラエルの人々をエジプトから助け出したことを聞きます。そして、一度イテロのもとに帰ってきていたモーセの妻チッポラと、息子たちを連れてモーセのところにやってきます。

モーセは舅イテロを出迎えもてなすと、舅イテロに神がエジプトの王や人々にした数々の奇跡、旅の途中で起きた困難などに対して、神が助けてくださったことを話します。これを聞いて舅イテロは喜び、モーセとイスラエルの人々を助け出した神をほめたたえます。そして「今、わたしは知った。彼らがイスラエルに向かって高慢にふるまったときにも、主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」と告白します。
舅イテロは、ミディアンという民族の宗教的指導者でした。彼はミディアンの神を信じその仕事をしている人でしたが、モーセが仕えているイスラエルの神の偉大な力を聞き、本当の神はイスラエルの人々を助け出した神であることを認めます。
この後、モーセと舅イテロは、イスラエルの人々を助け出してくださった神にいけにえを捧げ礼拝し、イスラエルの年長の指導者たちと一緒に食事をします。
神は、神を信じるモーセを通して、家族であるイテロを本当の神のもとへと導かれました。舅イテロは神の偉大な力を聞いて、ミディアンの神は偽りであり、モーセの信じる神が本物の神であることを知りました。
イスラエルの人々を助け出し、後にイエスキリストを与えてくださる神だけが、唯一真の神であり、私たちの命を永遠に守ってくださる方です。この神以外に神はなく、私たちを守り助ける力はありません。この唯一の神を信じる者は、神の奇跡を体験し、その体験を通して家族や周りの人々を、真の神へを導く役割を持っています。神を信じて従い、神の奇跡を体験したなら、その体験をためらわずに伝えていきましょう。
助言を受け入れる謙遜さ
舅イテロは、モーセとイスラエルの人々と共に過ごすうちに、モーセがイスラエルの人々全ての問題の解決を、神に答えを祈り求めるという、莫大な量の仕事をしていることに気づきました。人々は朝から晩までモーセのもとに並んでいたようです。人々はエジプトから連れ出したとき、成人男性だけで六十万人以上いましたから、女性や子供も合わせるとかなりの人数です。
舅イテロは、このままではモーセが疲れ果ててしまい、モーセが神の大切な使命のために働けなくなってしまうと判断し、モーセに助言をします。人々の中から、神に忠実で、有能、損得勘定の無い、信頼できる人々をリーダーに選び、モーセの仕事を分担するように勧めます。それによって小さな問題は彼らに任せて、モーセの負担を減らすことができます。

モーセは舅イテロの助言を素直に聞き入れて、リーダーたちを選び出します。そして共に、イスラエルの人々の共同体の問題を解決しながら旅を続けます。
モーセが自分がリーダーであることに執着して、舅イテロを敬わずに彼の助言を拒み、仕事を分担していなかったら、モーセは疲弊して人々をまとめることができず、神の使命を全うすることができなかったかもしれません。モーセは「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と書かれています。モーセが自分の力を過信せずに、謙遜になって助言を受け入れ、協力者を求めたことで、イスラエルの共同体は秩序を保ち、旅を続けることができました。
試練は喜び

モーセは幼いころにエジプトの王室に養子として迎えられ、王子として育っています。何不自由なく、最高の教育を受けただろうと思われます。ですがその後、エジプトでの居場所を失い、人里離れた荒野で挫折を味わいながら、羊飼いとして生活することになります。この経験がモーセから、自分の地位や名誉、自分の力に執着することから解放し、謙遜になって神の力に頼るようになったのだと思われます。
後にエジプトという大国から、六十万人の倍以上のイスラエルの人々をまとめて連れ出すという、そんな偉業を成し遂げるためには、世界で一番謙遜になる必要があったのかもしれません。神はそのためにモーセを荒野で訓練されたと言えます。
人は時に、今まで築いてきた地位、名誉、財産を失うことがあるかもしれません。ですがこれらの物が人を傲慢にして、神を退けたり、人々に対して無慈悲な心を持つようになるなら、名声はむしろ害になるといえます。神を信じ従うことが、自分だけでなく周りの人にも良い結果をもたらしてくれます。本当に価値のある物は、神から与えられます。
聖書に、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」と書かれています。神の試練は忍耐を、そして品性と希望という祝福を与えてくれます。希望を持って神と共に歩む、そんな素晴らしい毎日を手にしていただきたいと思います。

ここまで読んでくださってありがとうございます。また次の記事でご一緒できることを楽しみにしています。皆さんに、神の守りと祝福があることをお祈りしています。