バベルの塔の使い方
今回はバベルの塔をまとめてみたいと思います。皆さんの中に、「バベルの塔」という言葉をよく引用する方はいらっしゃるでしょうか。ちなみに私も、私の周りの人々にもこのたとえを使う人はほとんどいません。なんなら意味をもう一度確認し、使い方をマスターしたいところです。
辞典を調べると、バベルの塔は「人間の思い上がりのたとえ。また、実現不可能な計画のたとえ。」となっています。
ではどうしてこのような意味を持つようになったのか、聖書を見ていきたいと思います。聖書でバベルの塔の話は、初めの書である創世記の中に書かれています。神に正しいとされ、洪水を逃れたノアの子孫たちの中で起きた出来事です。
その前に、今日の私のおともは、私のお気に入りのカフェの、シナモンロールと、ラテです。このシナモンロールはパン生地の甘みが控えめなのですが、その分、シナモンフィリングとチーズフロスティングの甘みが引き立って美味しいです。皆さんも、お好きなスイーツやドリンクと一緒にお楽しみください。
外国語の勉強は楽しいけれど
現在の私たちは、社会が国際化するにしたがって、特に英語などの語学力が以前によりも求めらるようになっていますね。学校での英語教育は小学校から必須になっていますし、社会人でも仕事上必要だからとたくさんの方が学習されていて、中には語学留学費用まで支給する会社もあるようです。
長く時間をかけて勉強していても、なかなか思うように話せるようにならないなと感じている方も多いと思います。話すだけでなく、聞き取る訓練も必要です。言葉が一つだったらどんなに楽だったでしょうか。
実はこのバベルの塔の時代までは、人々の言葉は一つだったんです。聖書を読むと、なぜ現在のようにたくさんの言葉があって、その一つ一つを学ぶことが大変な理由がわかります。
有名になりたいと思うのは悪い事なのかな
当時世界中の人々は、同じ言葉を話していました。そして人口が増えると、人々は東の方に移っていき、シンアルという平地をみつけそこで生活をするようになります。彼らはだんだんと野心を持ち始め、大都市を建設しようと計画します。そして永久に残る記念碑として、天にも届くような塔を造り、自分たちの力を見せつけようと考えました。「こうやって一致団結すれば、あちこちに散らされる心配もなくなるだろう。」と豪語し、彼らは焼いた固いれんがを高く積み上げ、アスファルトで固めます。しかし、そんな彼らと彼らの塔をみた神は、これを罪として裁き、人々を散らし、塔の建設を止めさせました。
有名になりたいと思う人間の気持ちは、今も昔も変わらないのですね。有名になりたい、そのために努力して何かを造ろうと思うのは悪い事なのでしょうか。実際努力して、成功している人もたくさんいらっしゃいます。目標をもって、努力することは素晴らしいことですし、自分の才能を磨くことは神も喜ばれます。ではなぜ、神はこの高い塔を建てることに対して怒りを示されたのでしょうか。
それは彼らが「天まで届く塔」を造ろうと思った理由にあります。彼らは「神のおられる天」に届こうとして、高い塔を造っていました。自分たちの力が神と同じように偉大であることを証明し、神のようになろうとしていました事が問題でした。
傲慢という罪
神と同じ立場に立とうとする傲慢な心が罪です。聖書の中に何度も出てくるのですが、神は傲慢を罪とされ、非常に嫌われます。そのことが書かれた有名な言葉として、
★「プライドが高すぎると身を滅ぼし、高慢は失敗を招きます。箴言16:18」
★「青年たちにも言います。長老たちの指導に従いなさい。みな、謙遜になって互いに仕え合うべきです。神は、高慢な者には敵対し、謙遜な者には恵みを与えられるからです。Ⅰペテロ5:5」
★「自己中心であったり、見栄を張ったりしてはいけません。謙遜になって、他の人を自分よりもすたれた者と考えなさい。 ピリピ2:3」
などがありますが、他にもまだまだたくさんあります。
人と人との関係においてですら、神は高ぶらずに謙遜になりなさいと言っておられるのですから、人が神のようになろうとする考え、行いがどれほど傲慢なのかがわかると思います。
神に認められた正しいノアの子供たちであっても、人間はアダムとエバの罪を受け継いでいますから、知らず知らずのうちに、すぐに神に背き悪を行ってしまう性質があります。
天に届く高い塔を造ろうとした人々は、傲慢の罪に捕らわれています。彼らは塔を建てるために、自分たちでれんがを焼き、アスファルトを造ります。これは当時では相当高度な技術だったそうです。
そんな技術を開発した自分たちの力を誇るようになっていたのかもしれません。神が造った石や漆喰を使わないことからも、神に挑戦する心があったように思われます。彼らは、いつしか神のようになれると傲慢になっていたのでしょう。
言葉をばらばらにされる神
そんな彼らに対して神は、
「なんということだ。同じことばを使い、一致して事に当たると、人間はこれだけのことをやすやすとやり遂げてしまう。この分だと、これからもどんなことを始めるか、わかったものではない。思ったことを何でもやってのけるに違いない。 地上へ降りて行って、彼らがそれぞれ違ったことばを話すようにしてしまおう。そうすれば、互いの意思が通じなくなるだろう。」
と言われ、彼らがコミュニケーションをとれないように言葉をばらばらにし、人々が集まって悪だくみをしないようにと、彼らを町の方々に散らしてしまわれたのです。
ちなみに、この町の名がバベルとなったのは、神が全地の言葉を混乱(バラル)させ、彼らを散らされたからだと書かれています。
現代の私たちが語学の習得に苦労するのは、人間の罪によるものなのですね。それでも、努力して語学学習をすると、必ず上達します。この成果を与えてくださるのは、神の憐みと恵みなんだなと思います。
罪の毎日から祝福の毎日へ
聖書をを読むと、辞書に書いてあるように、「バベルの塔」が、人間の思い上がり、実現不可能な計画の譬えに使われる理由がわかりました。
「バベルの塔」は、実に身につまされる話ですが、教訓として日々心にとめておきたい話です。
しかしどんなに気を付けていても、私たち人間はアダムとエバの罪を受け継いでいますから、罪を犯すことはあります。そしてその罪に気が付かないことが非常に多くあります。
自分では謙遜になっているのつもりでも、心の奥では高ぶりがあったということは、よくあることです。また聖書には、人間は神に教えていただかなければ、何が罪なのかを知ることができないと書かれています。神と比べれば、人間はそれほどに無知であり、神の力なしには罪を自覚することはできないのです。
聖書には、罪がどんなものかが書かれています。それは現代社会で犯罪とされる事だけでなく、人が日常的につい犯してしまう罪が細かく記されています。自分の罪を示されるので、読んでいて苦しい思いになることもあるのですが、またそれ以上に神は、罪を悔いる心を喜び、赦してくださる方だと知ることができます。
神に罪を告白するなら、神は赦してくださり、沢山の恵みを与えてくださいます。罪によって起きていた問題を解決させ、苦しみを取り除き、たくさんの嬉しい出来事を与えてくださいます。ぜひこの体験をしていただきたいのです。
神は私たちをただ罪によって苦しめるお方ではなく、悔い改めて神に従うことを待っておられます。私たちが罪を認め悔い改めるなら、神から祝福を受けることができます。神はいつも私たちを祝福したいと思っておられる方です。そのために罪を示されるお方なのです。
半信半疑でも、暇つぶしにでも、おいしいスイーツと一緒に聖書を学んでいただけたら幸いです。
ここまで読んでくださってありがとうございます。また次の記事でご一緒できることを楽しみにしています。皆さんに、神の守りと祝福があることをお祈りしています。