モーセ⑦金の子牛

律法によって神を知る

前回は、神がイスラエルの人々に、モーセを通して「十戒」を含めた六百十三の律法を授けたところをまとめました。十戒は神が人間を支配するための物ではなく、人々が神の祝福を受け幸せに暮らすための教えです。またエジプトを出てきたばかりのイスラエルの人々に、神の律法によって善悪を基準を教えるものでもありました。偽物の神を信じるエジプトの人々の奴隷として長い間生活していたイスラエルの人々は、本当の神の教えによって、正しく生きることを学ぶ必要がありました。

モーセは神から受けた律法を持ってシナイ山を下りて、イスラエルの人々のところに行きます。そして、神の律法を守るなら神は特別にイスラエルの人々を祝福してくださると、人々に従うかどうかを確認します。それに対して、人々は「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います。」と宣言します。

今回は、モーセがイスラエルの人々の意向を神に伝え、神と契約を結ぶために再びシナイ山に登ったところからまとめたいと思います。










私の今日のおともは、クリームチーズとイチジクのマフィンと、ラテです。イチジクは聖書にもよくでてくる祝福の果実です。イチジクによって病気が癒された話も書かれています。ともに健康が祝福されることを信じ、感謝を持って聖書を見ていきたいと思います。

律法と幕屋建設の規則

モーセが再びシナイ山に登り、神とイスラエルの人々の契約を結ぶと、神はモーセに神の律法を書き記すように命じます。モーセは律法を書きうつし、また神から「十戒」が書かれた2枚の石の板を授かります。ここだけでも相当な時間がかかったと思われますが、さらに神はモーセに「幕屋」という可動式のテント施設を造るように命じ、その作り方や規則を細かく指示した手引きを授けます。

この膨大な量の律法と幕屋建設のための決まりは聖書に記されていて、読むのも大変なほどです。モーセは神と契約を結び、「十戒」とその他合わせた六百十三の律法と「幕屋」建設の手引きを受け取るために、四十日シナイ山に滞在することになりました。

ちなみに、律法は現代社会の法律のもとになっているだけあって、社会生活における様々な場面での規則です。例えば奴隷の扱い方は、社会生活で部下と適切にかかわったり、会社経営の雇用方法などに役立ちます。また人に危害を加えたり、財産などの所有物に損害をあたえるような犯罪に対しての罰し方など、共同生活のために必要な物です。

また、神と正しい関係を結び礼拝を捧げるために建設される「幕屋」は、莫大な量の決まりごとがあります。建築材料、サイズ、デザインだけでなく、中に配置される祭壇や机などの備品、幕屋で働く人々の着用する衣服の布の織り方、色、デザインに渡り、細かく決められていました。

本来神に近づくことなどできない罪ある人間が、神の前に礼拝を捧げ祝福を受けるために、どれほどの労力と清めが必であるかを痛感します。

絶望的な気持ちになるほどの細かい決まり事ですが、神は後にこの律法から解放してくださる救い主となる、イエスキリストをおくってくださいます。イエスキリストが私たち人間の罪の身代わりになって、十字架刑の罰を受けてくださるのです。このイエスキリストが命を捧げて後、よみがえり、私たちに永遠の命を与えてくださると信じる者は、神のもとに帰ることができるのです。

モーセの不在と人々の不安

モーセが山に登ったっきり四十日も帰ってこないので、イスラエルの人々は不安になってきます。もしかしたら、モーセは山で遭難して命を落としている、と思った人もいたかもしれません。

不安になった人々は、モーセの代わりに人々をまとめていた、兄アロンに訴えます。モーセは生きて帰ってくるのかわからない、このままでは目的地に向かって旅をすることができない、もしかしたらこの荒野でさまよって命を落としてしまいかねない、と思ったのかもしれません。

人々は、モーセの兄アロンに、人々を導く目に見える神を造ってほしいと頼みます。イスラエルの人々は、神が与えられた律法を守り行うと約束したばかりです。「十戒」の初めに、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」とあり、人々はすでに同意していることを忘れ、神に罪を犯しています。

聖書を読んでいると、簡単に神の教えに背いて罪を犯す人々を不思議に思うことがあります。でも後になって、そんな人々と同じ罪を犯してしまうことを経験することがあります。聖書の中に書かれている罪は、全ての人間が持っている性質だと学びました。

人間は確かなものが見えなくなると不安になり、慌てて自分の都合の良いように対策を考えだしてしまいます。その対策が神の教えに沿ったものならいいのですが、神と教えを放棄することは、神の祝福を逃し神の怒りを招いていまします。いつでも冷静になって、神を信頼して祈る事を教えられます。

四十日もモーセが戻らなかったことで不安になる気持ちは、とてもよく理解できます。ですが、私たち人間は神の定めた時を待たなければなりません。神はイスラエルの人々を忘れて、モーセと楽しく過ごしているわけではなく、人々が祝福され幸せに暮らすための導きをモーセに授けているのです。その神を信頼せずに、勝手に判断し神に背くことのないようにしたいものです。

金の子牛

目に見える神が欲しいと言い出したイスラエルの人々の数が多く、また鬼気迫るほどの訴えだったのか、モーセの兄アロンは、彼らの罪に同意してしまいます。アロンは人々に家族、妻や娘、息子たちが付けている金の耳飾りを集めてくるように命じます。そして人々が金を集めて持ってくると、アロンはのみで型を作り、金を鋳造して子牛の鋳物を作ります。

これを見てイスラエルの人々は、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」と言って、この子牛の前で礼拝し、宴会を催します。

エジプトから脱出した時はこの子牛は存在していませんでしたし、エジプトに10の災いを起こし、海を二つに分けて助け出してくださった偉大な神ではないことは明らかです。それでも無力な金の子牛を神だと信じ込んで、自分たちを安心させようとしている姿は、人間の悲しい性を感じます。

石板を砕くモーセ

モーセと会見していた神は、イスラエルの人々が重大な罪を犯していることをモーセに告げ、すぐに下山するように命じます。神はモーセに、神に背いたイスラエルの人々を滅ぼし尽くすと宣言し、モーセに止めるなと言われます。

ですが、神がどれほどイスラエルの人々を愛しているかということを知っていたモーセは、神に思いとどまるようにお願いします。神がイスラエルの人々の奴隷としての苦しみを聞き、エジプトの土地から不思議な奇跡によって連れ出したことを思いだして、人々に滅びの裁きをされないようにと懇願します。

神が選ばれた、偉大なリーダーモーセです。モーセは、神がアブラハム、イサク、ヤコブを通して、その子孫を天の星のように増やし、約束の土地を与えると約束したことを必ず守る、誠実な神であることを確信していました。

モーセの願いによって神は、イスラエルの人々の罪の裁きを思い直します。神のイスラエルの人々の祝福の計画は変わりません。神はあらかじめリーダーとして選ばれたモーセの忠実な素質を通して、イスラエルの人々が罪を犯しても、神の計画が変わらないように導かれていきます。

モーセは神から与えられた「十戒」の石の板を持って下山し、イスラエルの人々のもとに戻ります。金の子牛の前で飲み食いし、喜び踊っている人々を見て、モーセは激しく怒って、神からいただいた大切な石の板であるにもかかわらず、投げつけて砕いてしまします。

神の怒りをなだめることはできたモーセですが、罪を犯す人々を目の当たりにすると、自分の怒りを収めることはできなかったのですね。

モーセは金の子牛を取り火で焼き、その粉を水の上にまき散らし、人々に飲ませます。モーセが兄アロンに、なぜ人々がこんなに酷い罪を犯したのかと尋ねると、兄アロンは正直に答えることができずに、金を火の中に投げ入れたら子牛が出てきたと、苦し紛れに答えます。責任逃れをする兄アロンです。

人々の中には、神に対して忠実な人々も残っていました。モーセが神を信じる者はモーセのもとに集まるように命じると、おもに「レビ族」という部族の人々が集まってきました。モーセは、神に背いた自分の仲間たちを離れて、神を信じることを選んだこのレビ族の人々を、神のための仕事をする「祭司」として任命し祝福します。

人々を弁護するモーセ

モーセは、罪を犯した人々の弁護をするために、再び神のもとに向かいます。モーセは人々が金の偽物の神を作った事実を告白し、神に謝罪し赦しを求めます。

金の子牛を作った罪を悔い改めて、モーセのもとに集まらなかった人々は神に裁かれてしまいますが、神を信じた人々は助かりました。神はモーセに、助かった人々を連れて、神の与える約束の土地に向かうように命じられます。ですが、神は人々と共には行かないと言われます。

人々が金の子牛の罪を犯すまでは、神は共にいてくださって、昼は雲の柱、夜は火の柱によって人々を導いてきました。ですがこれからは、神が直接導かれるのではなく、神の使いである天使と共に進むように命じます。神はイスラエルの人々を、意地っ張りで神に素直に従えない罪があると指摘し、そのような神に従えない人々と一緒にいると、神が裁いて滅ぼしてしまうからだと言われます。

モーセが神を信じる者は集まりなさいと言ったときに集まった人々ではありましたが、この先もまだ罪を犯す可能性のある人々であることを意味し、また金の子牛を礼拝した罪を、完全に悔い改めていない人々がいたことを意味しています。

人々は神が共におられないという言葉を聞くと、嘆き悲しみます。

神はその人々に、「直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、あなたをどのようにするか考えよう。」と言われます。人々が身に着けていたものは、金の子牛を礼拝していた時に身に着けていた汚れた物であり、それを取り除くことで悔い改め身を清めるように命じています。人々は神に従い飾りをはずし、神に悔い改めを示します。

この人々の悔い改めと共に、モーセは人々を再度弁護し、神ご自身が人々を伴って、旅を導いてくれるように懇願します。神はこのモーセの忠実なリーダーとしての姿を認め、祈りに応えてくださいます。

神が共にいてくださる祝福

モーセは、神が共にいてくださるということが、どれほどの恵みであり祝福であるかを知っていました。神が共にいて助けてくださるなら、どんなことでも成功します。神が共にいてくださらないなら、何一つ上手くいきません。全て神の力が働いています。

人が無意識に行っている単純な行動も、全て神の助けなしにはできません。怪我をしたり、病気になって、普段当たり前のことができなくなったとき、そのことをよく理解できます。歯磨きすること、顔を洗うこと、服を着て身支度など普段何気なく行ってることも、全て神の恵みです。

神が共にいて、必要な物すべてを与えてくださるときに、人間は何不自由なく過ごすことができるのです。当たり前のことは、当たり前ではない神の恵みです。忘れずにいたいですね。

人が罪を犯すと、神との距離が大きく離れてしまいます。神に共にいていただくためには、自分の罪に気づいたらすぐに悔い改め、赦しを祈り求める必要があります。神は罪があっても見捨てるようなお方ではありませんから、心から悔い改めるなら、赦し神に近づけてくださいます。

神が共にいてくだされば、必要な物は全て与えられます。共に神を信頼し従っていきたいですね。

ここまで読んでくださってありがとうございます。また次の記事でご一緒できることを楽しみにしています。皆さんに、神の守りと祝福があることをお祈りしています。

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