レビ記

聖い神との関係を保つ

前回は、モーセを通してイスラエルの人々が神と契約を結び、律法を受け取った後、「幕屋」を建設したところをまとめました。幕屋は、聖い神が臨在される場所であり、本来罪ある人間は簡単には近づくことはできません。ですが愛ある神は、幕屋に関わる決まり事を通して、人々を神に近づけ、共に旅をすることを約束してくださいます。

今回はレビ記を通して、聖い神との関係を保つための、礼拝と生活に関する戒めを学びたいと思います。律法の数の多さと、その内容の細かさに、途方に暮れてしまいますが、律法は神の祝福につながります。

また律法によって、神の聖さと人間の罪深さを知ることができます。律法によって、神に罪を赦される恵みに感謝を覚えます。

今日のお供はチョコレートロールケーキと、アメリカーノです。神に感謝を捧げながら、聖書を開いていきたいと思います。

イスラエルの12部族

少し聖書をさかのぼりたいと思います。イスラエルというのは、アブラハムの孫にあたるヤコブの新しい名前です。ヤコブという名前は、「人を押しのける、出し抜く」という意味を含んでいました。ヤコブが神の人と戦って完敗し、完全に悔い改め神の祝福を求めたときに、神から新しくなずけられた祝福の名前が「イスラエル」です。

それから、ヤコブの子孫はイスラエル民族として増え広がっていきます。ヤコブには12人の息子がいたので、イスラエル民族は、12人の息子の子孫ごとに12部族に分かれていきます。レビという息子の子孫はレビ族となり、モーセと兄アロンはその家系から生まれます。兄アロンをはじめとして、レビ部族は、神の仕事をする祭司として選ばれた部族となります。レビ記は、神に仕える祭司レビ部族に対する律法と、イスラエルの人々全体の律法が記されています。

神の祝福を受ける特別な民族であるイスラエルは、その祝福を受けるにふさわしく、多民族とは異なる生活習慣が定められ、特にレビ族は、神に仕える者としてより厳格な決まりがありました。イスラエル民族は、その律法を守り行うことによって祝福を受け、世界中の全ての民族に対して、模範的な生き方を示す民族としての役割がありました。

イスラエルの人々は神の聖さと祝福を現し、世界中の国民や民族を神に導く、選ばれた民族なのです。

5つの捧げもの

本来罪ある人間は、聖い神に近づくことは出ません。神に近づき礼拝を捧げ、神との関係を築くためには、人々は罪を贖う捧げものをする必要がありました。この捧げものは、大きく5つに分かれています。この神に捧げものをする儀式は祭司が行いました。

Ⅰ焼き尽くす捧げもの
これは、人間の罪による神の怒りをなだめるための捧げもので、神が定めた聖いとされる家畜を捧げます。若い雄牛、雄の子羊、雄山羊、鳥が捧げられました。全焼のいけにえとも呼ばれるこの捧げものは、家畜を残らず完全に焼き尽くすところから、神に完全に従い自分自身を捧げる、という意味を持っています。

Ⅱ穀物の捧げもの
穀物は、焼き尽くす捧げものによって神の怒りが収まった後に捧げます。動物の血によって人間の命が贖われたあと、穀物によって神が罪を赦してくださったことに感謝を捧げます。作物は人間の労力ではなく、神の恵みであると謙遜になって認め、感謝を持って捧げます。捧げる穀物は上等の小麦粉と定められ、小麦粉の上にオリーブ油を注ぎ、乳香と一緒に捧げました。

Ⅲ和解の捧げもの
これは特別に感謝を表すためのもので、神に願った祈りがかなえられた時などに捧げられます。現代でも、感謝献金として特別に良い事があったとき、進学卒業、就職、結婚、出産、建築、病から快気した時などに捧げられています。焼き尽くす捧げものと同様に、家畜などを捧げるのですが、全焼にせず、残った肉は祭司と捧げた家族の喜びの宴会の食事になりました。これが和解の捧げものの特徴です。

Ⅳ罪のため捧げもの
人々が誤って罪を犯した場合に捧げる物です。罪を犯した者が、その罪を告白し捧げものをすると、罪が赦されました。捧げるものや捧げ方は、それぞれの身分によって変わりました。大祭司と呼ばれる神の仕事をする祭司のトップ、イスラエルの全集団、人々の中のリーダーたち、一般の人々と、4つの身分に分けられています。特に大祭司と呼ばれる神の働きをする祭司の中でも、一番上に立つものは責任が重く、捧げる物や方法がとても細かく定められていました。大祭司はモーセの兄アロンです。

Ⅴ賠償の捧げもの
何かに損害を与えてしまった場合に、賠償するために捧げるものです。賠償しなければならない罪は、神の聖なるものに対して罪を犯した場合、神の禁止命令を誤って破った場合、隣人の所有物を騙し取った場合の、3つに分けられていました。

神に選ばれた祝福の民族

捧げてばかりで厳しい罰のように感じるかもしれませんが、結果的には神に罪を赦され祝福を受けるための恵みです。また、イスラエルの人々は他の国民や民族とは違って、神に罪赦された聖なる国民として生活することが求められます。神の定めた律法を守り行う生活を通して、世界中の人々に、神の祝福を受ける特別な民族であることを示すためです。

神が与えた律法は、食べていい物といけない物の規定や、出産後の母親の体を清めるための規定、伝染性皮膚病にかかった際の清めの規定、男女間と同性間の性的な関係に関する規定、神を愛し偽物の偶像を避ける規定など、たくさんの事が定められていました。

また、神への感謝をあらわす祭りを行うように定められ、年に7回、主に春と秋に行われます。これらの祭りは現代でも続いていて、イスラエルの人々は毎年盛大に祭りを行います。祭りを行うことで、他の国民や民族との違いを現します。

また神の仕事に就く祭司たちは、より聖さが求められたので、他の人々よりも決まりごとが多くありました。捧げものの儀式を行う方法、身に着ける衣服などの決まりごとが細かく命じられました。また汚れを避けるために、死体やお墓に触れてはならない事、性の罪によって汚れた女性や離婚歴のある女性との結婚などが禁じられていました。

従順に対する祝福

神の律法は非常に細かく数も多いので、聖書を読むときに挫折しやすい箇所だと思います。この複雑な律法を守り行うことは大変な労力が必要ですが、神は神の定めたことに従うなら祝福する、と約束されます。

神の定めた休みに休むことも祝福です。安息日と言って7日のうち1日は全ての仕事を休むことが定められていますが、加えて7年のうちの1年は作物を植える作業を禁止しします。7年に1度、土地を休ませることで作物は豊かに祝福されます。人間も土地も、休みを取ることで回復し生産性が高まるのは、神の定めた事です。このことは人間も土地も、全ては神の所有している物であり、神の定めた法則によって適切に取り扱うことで祝福を受けることを教えてくれます。

神と契約を結んだイスラエル民族は、神を畏れ従順になることを命じられます。偶像を避け、安息日と安息年を守り、捧げものをすることで祝福を受けていきます。

また、自分が心から望んでいることを神に願う時に、誓願をすることについても記載されています。誓願とは、何か特別に願うことがあり、神がその願いを叶えてくださるのなら、思い切って大切な物を捧げるという誓いです。手放したくないほど大切なものを捧げるほど、神は神を信頼する心を喜んでくださり、受け取ってくださいます。

聖書には、不妊の女性が神に男の子を願い、その願いが叶ったら授かった男の子を神に捧げると誓願した話が出てきます。この話はいずれサムエル記というところで紹介したいと思いますが、彼女は息子を神に捧げ、息子は神の仕事をする祭司になっていきます。息子を捧げて誓願を果たしたこの女性は、その後子宝に恵まれる祝福を受けていきます。

誓願の捧げものは、お金や物、自分の大切な人、また自分自身を捧げることもあります。自分の生涯を捧げて、神の仕事に就き聖職者となられた方々もたくさんいらっしゃいます。

誓願によって捧げることは重大な決断ですが、神は忠実さと従順さを非常に評価されるお方ですから、必ず祝福につながります。ですが、くれぐれも果たせないような無責任は誓願はするべきではありません。そして神は誓願を強制されるようなお方ではありませんから、願いがある時は、子供が親にねだるように素直に祈るべきです。

どうやって律法を守ればよいの

神の命令を守り行うことはとても素晴らしい事ですが、罪ある人間が、神の律法を完璧に守り行うことは不可能です。どんな人でも罪を犯しますから、繰り返し捧げものをしなければなりません。また捧げるたびに自分の罪深さを思い知ることになり、希望を失ってしまいます。

この律法から解放してくださったのが、後に誕生するイエスキリストです。イエスキリストは、私たち一人ひとりの罪のために十字架刑を受けてくださいました。イエスキリスト御自身が、私たちの罪の捧げものとなり、十字架の上で死んでくださいました。

自分の罪を認めて、イエスキリストが罪の身代わりとなって罰を受けてくださったことを信じるなら、罪が赦されて神と聖い関係が保てます。そして、神の子供となり、神の楽園に戻ることができます。

キリストの罪の贖いは一度で完了するものです。キリストを信じたものは、もう罪のための捧げものをする必要はありません。ですが、律法から解放されたからといって、律法を放棄するべきではないと書かれています。

イエスキリストを信じて神の子供となったなら、神の聖さに倣うように律法を意識した生活をすることが求められます。罪ある人間には完全に守れない律法ですが、神に祈り助けと力をいただいて神の聖さに近づく必要があります。自分の思いや自我を捨てて神の生き方に倣うことで、神の祝福を受けます。その姿から、神を信じていない人々との違いを示すことができる、生きた神の証人となる事ができます。神は私たち一人ひとりにそのような姿を示すことを願われています。

神の祝福を受け、人々に神を伝える存在になりたいと思います。

ここまで読んでくださってありがとうございます。また次の記事でご一緒できることを楽しみにしています。皆さんに、神の守りと祝福があることをお祈りしています。

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